三洋ピンボール

一覧へ戻る
小峰隆夫の私が見てきた日本経済史 (第(di)122回)

人口問題への取り組み(1) 「2000年の日本」の頃

 

2023/11/27

『私が見てきた日本経済』について

 前回ご紹介したように、本連載からという新(xin)(xin)しい本が生まれた。私は既に多くの本を著しているのだが、何(he)度繰り返しても、新(xin)(xin)しい自分(fen)の著書を最初(chu)に手(shou)にするのはものすごく嬉しいものだ。これから何(he)人(ren)もの人(ren)がこの本を開き、私が書いた文(wen)章を読むことになるのだと考えると、自分(fen)が育てた子供を社会に送り出すようなわくわくした気(qi)になる。

 私は、この本(ben)を先(xian)輩(bei)・知人・友人に送(song)ったのだが、早速反(fan)応(ying)があったので、そのうちのいくつかを紹(shao)介しよう。

 まず、この本に何(he)度か登(deng)場する経(jing)済(ji)企画庁の先輩(bei)で、元事務次官の塩谷(gu)隆英(ying)(たかふさ)氏(shi)(shi)からお手紙(zhi)を頂(ding)いた。第5章3「白書づくり1年生の出来事」の中で、私は新入(ru)りの分(fen)(fen)際(ji)で、塩谷(gu)氏(shi)(shi)が率いる貿易班の分(fen)(fen)析を勝手にカットしてちょっとした問題になったことを書いた(117ページ)。印象(xiang)深い出来事だったので、私はよく覚えていたのだが、塩谷(gu)氏(shi)(shi)は全く覚えていないという。なるほど、記憶というのは人によって随(sui)分(fen)(fen)違うのだなと改めて感じた。

 なお、塩(yan)谷(gu)氏(shi)(shi)は人事面で私が官庁エコノミストの道(dao)を歩(bu)むのを後押ししてくれた方(fang)で、私は大(da)変感(gan)謝していたのだが、これについても塩(yan)谷(gu)氏(shi)(shi)から意外な感(gan)想を聞いた。塩(yan)谷(gu)氏(shi)(shi)は、自らの人事面での影響(xiang)力を行使して、私に官庁エコノミストの道(dao)を歩(bu)ませたわけだが、塩(yan)谷(gu)氏(shi)(shi)は「それが本(ben)人にとって本(ben)当に良かったことなのか」気にかけていたのだという。

 簡(jian)単に言うとこういうことだ。経済企画庁の官(guan)(guan)僚には二つの道(dao)がある。一つは普通の行政(zheng)官(guan)(guan)コースであり、もう一つは官(guan)(guan)庁エコノミストコースだ。後(hou)者のエコノミストコースに乗ると、専門職(zhi)的(de)な人(ren)間になっていくので、最終的(de)に役(yi)人(ren)の最上位である次官(guan)(guan)にはならないことが多(duo)い(例(li)外もある)。塩(yan)(yan)谷氏(shi)は、私(si)をエコノミストコースに乗せることにより、役(yi)人(ren)としてのオーソドックスな出(chu)世コースから外してしまったことを気にしていたのだ。ところが、私(si)の今回の著書を読んで、そのエコノミストコースを歩んで内国調(diao)査課(ke)長になることこそが、私(si)の人(ren)生の大きな夢だったことを知った。塩(yan)(yan)谷氏(shi)の行動は私(si)の夢をかなえる力になったわけだ。これを知って塩(yan)(yan)谷氏(shi)はほっとしたということだった。

 確かに、現(xian)役(yi)の役(yi)人の時には、大(da)っぴらに「私(si)は内国調査課長になりたいんです」と言うわけにはいかないから、私(si)の本当(dang)の気(qi)持ちは誰にもわからなかったのだ。やや夢のような話だが、これからは、経済(ji)学のマーケットデザインを応(ying)用して、働く側も自らのキャリアコースの希(xi)望を明らかにし、人事(shi)担当(dang)者が考える配(pei)置とのミスマッチを小(xiao)さくしていくことができれば素晴らしいと思(si)う(民間企業では既に応(ying)用が始まっているが)。

 大(da)学教員の同僚のI先(xian)生からもコメントが来た。まず、この本で書(shu)(shu)いている私(si)の人生の記述が中途半端だという指摘があった。この本では、私(si)が内(nei)国調(diao)査課(ke)長になって経(jing)済(ji)白(bai)書(shu)(shu)を書(shu)(shu)くまでが中心のストーリー展開になっている。私(si)自(zi)身もそう考えていたので、第8章(zhang)の終わりで、次(ci)のように書(shu)(shu)いている。「私(si)は経(jing)済(ji)白(bai)書(shu)(shu)を書(shu)(shu)きたいという大(da)きな夢(meng)(meng)(meng)を持っていたが、その夢(meng)(meng)(meng)はかなえられてしまった。これまでは夢(meng)(meng)(meng)に向かっていく人生だったが、これからは夢(meng)(meng)(meng)から覚めた後の人生を歩むのだ。もちろん次(ci)の夢(meng)(meng)(meng)を見(jian)(jian)出(chu)せればいいのだが、経(jing)済(ji)白(bai)書(shu)(shu)のような大(da)きな夢(meng)(meng)(meng)は簡単には見(jian)(jian)つからないだろう。これからは、中程度の夢(meng)(meng)(meng)を追うことになるのか、それとも夢(meng)(meng)(meng)そのものがなくなり、自(zi)然体で生きることになるのだろうか。」(266ページ)

 これを読(du)(du)んだI先生は、私が中程度の夢路線と自然体路線のどちらを歩むことになるのか興(xing)味津々で、その後(hou)の部分をむさぼるように読(du)(du)んだのだが、その答えは書(shu)(shu)(shu)かれていない。これはいかにも中途半端だというわけだ。なるほど確(que)かにそう言われてみるとそうかもしれない。私の関心が経済白書(shu)(shu)(shu)で終(zhong)わってしまったので、本書(shu)(shu)(shu)でも白書(shu)(shu)(shu)を書(shu)(shu)(shu)いた後(hou)の人生についてはあまり丁寧に書(shu)(shu)(shu)いていないのだ。

 I先生(sheng)に「で、結局どのコースになったんですか」と聞かれて、改(gai)めて考えてみると、私は自然体路線を歩んで来たようだ。白書(shu)を書(shu)いた後は、与えられた仕(shi)事をこなしながら役人(ren)生(sheng)活を過ごし、大学の教員になってからは、課された講義を行い、求められるままに経済分析の仕(shi)事をしてきた。特(te)に目標があったわけではなく、自然体だったと言(yan)えそうだ。

 もう一つI先生は、本書(shu)(shu)の第9章(zhang)5で書(shu)(shu)いた「虫(chong)歯(chi)か高(gao)血(xue)圧か」の部(bu)分(fen)(fen)についてもコメントしてきた。この部(bu)分(fen)(fen)は、短(duan)期(qi)(qi)的(de)(de)な課題と長(chang)期(qi)(qi)的(de)(de)・構造的(de)(de)な課題を分(fen)(fen)けて考(kao)えるべきだということを述べた部(bu)分(fen)(fen)であり、1994年(nian)の白書(shu)(shu)ではこれを「風邪を引いて体調が悪(e)くなって医者(zhe)に行ったら、かねてから悪(e)かった高(gao)血(xue)圧が見(jian)つかったようなものである」と書(shu)(shu)いた(296ページ)。ただしこれは上司(si)のコメントで修正(zheng)したもので、私が書(shu)(shu)いた原案(an)は「風邪を引いて熱(re)が出(chu)たら、歯(chi)が痛み出(chu)し虫(chong)歯(chi)がある(構造的(de)(de)な課題がある)ことが分(fen)(fen)かった」というものだった。本書(shu)(shu)で私は、しつこくも、やはり虫(chong)歯(chi)の例えの方(fang)が良(liang)かったのにと書(shu)(shu)いている。この点について、I先生は「やはり虫(chong)歯(chi)は短(duan)期(qi)(qi)的(de)(de)な病であり、構造的(de)(de)な病の例としては、高(gao)血(xue)圧の方(fang)がふさわしい。私自身、高(gao)血(xue)圧なので良(liang)く分(fen)(fen)かる」とコメントしてきたのだ。なるほどそう言われて改めて考(kao)えてみると、確(que)かに虫(chong)歯(chi)より高(gao)血(xue)圧が良(liang)かったのかもしれないと私も思い始(shi)め「何事も自分(fen)(fen)だけの思い込みは良(liang)くないのだな」と考(kao)えたのだった。

私と人口問題

 さて、ここからようやく本題に入る。今回からしばらく、人口問題についての議論を紹介することにしたい。私は、人口問題の専門家というわけではなく、役人時代に人口に関係する仕事をしたのは1982年に参加した「2000年の日本」というプロジェクトだけだった。ところが、法政大学で教職についてから、ある人口問題についての研究会で取りまとめ役を務め、その成果が出版された。これをきっかけに私も「人口問題はなかなか面白い」と思い始めた。すると不思議なもので、次々に人口関係の仕事が舞い込んできた。その一つが、日本経済研究センター長期経済予測の「人口が変えるアジア」というプロジェクトの主査を務(wu)めたことだ。このプロジェクトで、私は「人口(kou)オーナス」というアイディアをマスターすることになる。この「人口(kou)オーナス」は、私にとって一大ブレークスルーとなる考え方となり、「日(ri)本(ben)経済研究センター会報」に、2008年8月(yue)(yue)から09年9月(yue)(yue)までの14回にわたって「人口(kou)オーナス どうなる日(ri)本(ben)経済」という連(lian)載記事を執筆した。この連(lian)載を基に、10年6月(yue)(yue)にという本(ben)を出した。

 こうなってくると、私も一(yi)応「人(ren)口と経済」についての専門家とみなされるようになり、さらに人(ren)口に関係する仕事が舞い込んでくるようになった。新聞・雑誌でもコメントを求められるようになっていった。これは現在まで続いており、最近では、岸田首(shou)相の異次元少(shao)子化対策(ce)について批判(pan)的なコメントを出したりしている。

 本(ben)(ben)連載では、こうした私と人口(kou)問題とのかかわりについて述べていくことにしたい。改(gai)めて振(zhen)り返ってみると、長い時間経過の中で、日本(ben)(ben)全体の人口(kou)問題に対する考え方も随(sui)分変(bian)(bian)化した。私自身の考え方もまたかなり変(bian)(bian)化している。以下、時代を追って振(zhen)り返ってみよう。

少子化という言葉の誕生

 私が最初に人口問題に接(jie)したのは、経(jing)済(ji)企画庁の総(zong)合計(ji)画局(ju)(ju)計(ji)画課の課長補佐(zuo)の時である。総(zong)合計(ji)画局(ju)(ju)では、1981年から「長期展望作業」を開始した。これは局(ju)(ju)を挙げての大作業であった。

 この作業のため「経済審議会長期展望委員会」(委員長は大来佐武郎氏)という会議を組織し、この委員会の下に6つの小委員会、さらにその下に9つのワーキンググループが設けられた。これらの委員会に、128人の当代きっての専門家が集められた。これら委員会の延べ開催は182回である。私は、この大作業の事務方のまとめ役となり、最後には報告書の原案をすべて書き下ろした。この辺の事情は、本連載の第51回「ペンは強し―経済白書ができるまで(2)」(2017年11月15日)で既に書いている。

 長期展望なのだから、当然人(ren)口問(wen)題が取り上げられた。現(xian)在であれば人(ren)口問(wen)題と言(yan)えば「少子化(hua)」が中(zhong)心になるのだろうが、1980年(nian)代の当時の人(ren)口問(wen)題の中(zhong)心は「高齢化(hua)」であった。

 振(zhen)り返(fan)ってみると、そもそも「少(shao)子化(hua)」という言葉そのものが、比較的新しい言葉である。試しに、日(ri)経テレコンで「少(shao)子化(hua)」を検(jian)索してみると、1983~91年(nian)(nian)(nian)の間でヒットしたのはたったの6件である。そのヒット数(shu)は92年(nian)(nian)(nian)から増え始め、92年(nian)(nian)(nian)が18件、93年(nian)(nian)(nian)が47件、94年(nian)(nian)(nian)が142件となっていく。そう、「少(shao)子化(hua)」と言いう言葉は92年(nian)(nian)(nian)から本格(ge)的に使い始められた言葉なのである。なぜ92年(nian)(nian)(nian)からなのか、クイズに出したくなるような問題だが、これは、ある政府(fu)の文書(shu)がきっかけになっているのだ。

 かつて経済企画庁では、国民生活(huo)局というものがあり、ここで毎年(nian)、国民生活(huo)の現状に関するトピックをまとめた「国民生活(huo)白書」という白書を出していた。その92(平成4)年(nian)度の白書の副(fu)題が「少子(zi)社会(hui)の到来、その影(ying)響と対(dui)応」であった。この白書では、出生率の低下に伴い人口に占(zhan)める子(zi)供の割合が減(jian)っていく「少子(zi)化(hua)」が進めば、社会(hui)全(quan)体(ti)の変化(hua)への対(dui)応力や挑(tiao)戦の精神が薄れ、活(huo)力が損なわれる可能性があると警鐘を鳴(ming)らした。特に「子(zi)供を持ちたいが希望通(tong)り持てない現実(shi)がある」と指摘。その解決のため育(yu)児関連設備や育(yu)児休業、住宅の充実(shi)、教(jiao)育(yu)費(fei)負担(dan)の軽減(jian)などを進めるべきだと強調している。これが「少子(zi)化(hua)」という言葉が使われるようになったきっかけである。

 この白書の執筆者は、私の1年後輩(bei)の川本(ben)敏氏(shi)なのだが、1992年11月9日の日本(ben)経済新聞(wen)の「人ひと」という欄に登場している。短いものなので、記事(shi)の全(quan)文を紹介(jie)すると、次のようになっている。

 「経済(ji)企画(hua)庁は92年(nian)度版の国(guo)民(min)生活(huo)白書を発表(biao)する。今年(nian)のテーマは出生率の低下やそれに伴う子供の数の減少を意味する『少子化』。耳慣れない言葉(xie)だが、執筆にあたった川本敏国(guo)民(min)生活(huo)調査課長は『高(gao)齢化とは逆の視(shi)点から、人(ren)口構成の不均(jun)衡に伴う様々な問題を提起した。最初は違和(he)感があっても、現(xian)代社会(hui)の大きな流れを表(biao)す概念だから、これから確実に広まるはず』とみる。『国(guo)民(min)一人(ren)一人(ren)にとって身近(jin)なテーマで、国(guo)際比較などのデータも豊富に盛(sheng)り込んだ。男(nan)性にもぜひ読んでもらって、意識改革(ge)に役立ててほしい』とアピールしている。」

 この記事を見れば分かるように、当時は「少子化」という言葉(xie)(xie)は、耳慣れない違和(he)感のある言葉(xie)(xie)だったのだ。そして川本(ben)氏の「これから確実に広まるはず」という指摘は全(quan)く正しかったのである。

 なお、全くの余(yu)談だが、私は1969年に新人(ren)(ren)として内国調査(cha)課(ke)に配属(shu)されたのだが、翌70年に配属(shu)されたのが八代尚宏氏(shi)で、71年に配属(shu)されてきたのがこの川本(ben)氏(shi)である。内国調査(cha)課(ke)に配属(shu)された新人(ren)(ren)は、種々の雑用をこなすのだが、その中(zhong)に夕食の注(zhu)文取りというのがあった。残(can)業するスタッフのために出前(qian)を注(zhu)文するのである。私は、一(yi)(yi)人(ren)(ren)一(yi)(yi)人(ren)(ren)に注(zhu)文を聞くという方法を取っていたのだが、川本(ben)氏(shi)はここにイノベーションを持ち込(込)んだ。一(yi)(yi)人(ren)(ren)一(yi)(yi)人(ren)(ren)聞くのではなく「今日はカツ丼にします」という具合に、こちらからメニューを指(zhi)定してしまうというやり方にしたのである。見ていた私は「なるほどそういう手があったか」と大いに感心(xin)したものである。

2000年の日本と人口問題

 さて、1982年(nian)にまとめられた長期展望委員会の報告(gao)書「2000年(nian)の日本」では、副(fu)題が「国際化(hua)(hua)、高齢(ling)化(hua)(hua)、成(cheng)熟(shu)化(hua)(hua)に備えて」となっているように、21世紀に向けての大きな三つの流れの一つとして「高齢(ling)化(hua)(hua)」を取り上げており、1982年(nian)から21世紀に至(zhi)るまでの約20年(nian)間は「高齢(ling)・人口安定社(she)会への過渡期」だと位置づけている。

 まず、出生(sheng)率については、当(dang)時(shi)の厚生(sheng)省(sheng)人口(kou)問(wen)(wen)題研究所(suo)(現在の厚生(sheng)労働省(sheng)国(guo)立社会保障(zhang)・人口(kou)問(wen)(wen)題研究所(suo))の「将来人口(kou)推(tui)計(ji)(1981年(nian))」の中位推(tui)計(ji)を使っている。この中位推(tui)計(ji)では、1974年(nian)以(yi)降低下(xia)してきた出生(sheng)率は、86年(nian)に1.68まで低下(xia)してから反転し、緩やかな上昇を続(xu)け2000年(nian)には1.85、2025年(nian)には人口(kou)の置(zhi)き換え水準の2.09(現在では2.07)まで回復するとされていた。

 そしてこの想定の下では、日本の総人(ren)口(kou)は、1980年の1億(yi)1,692万人(ren)から、2000年に1億(yi)2,812万人(ren)となった後、08年の1億(yi)3,036万人(ren)でピークを打ち、以後なだらかな減少局面を経て定常状態に入ることになるとしている。

 報(bao)告書では、出(chu)生(sheng)率が回復する理由(you)として、①第2次ベビーブーム(1970年代前半(ban)世代)の女子(zi)が出(chu)産適齢(ling)期を迎えること、②大学・短大等の進学率の頭(tou)打(da)ちにより、初(chu)婚年齢(ling)の遅れも止まるものと考(kao)えられること、③我が国の場合は一(yi)生(sheng)結婚しない人(ren)や無子(zi)の夫婦が少(shao)ない等、家族観(guan)がヨーロッパ諸国とは異なるため、経済(ji)が安(an)定し、人(ren)々がそれに適応(ying)した後には、出(chu)生(sheng)率の回復が見(jian)込まれること、を指(zhi)摘(zhai)している。

 つまり、当時、少(shao)子化(hua)、人(ren)口減少(shao)に対する意識が弱かったのは、出生率の低下は一時的なものであり、やがて回(hui)復して、人(ren)口減少(shao)も緩やかで一時的なものにとどまるはずだと考えていたからである。

 現実には、出生率はほぼ一(yi)貫して下がり続け、2022年には過去最(zui)低の1.26にまでなった。08年に総(zong)人口(kou)がピークを打つという見通しは全く正しかったのだが、ピーク時の人口(kou)は、1億2,808万(wan)(wan)人であり、当時の予(yu)想より228万(wan)(wan)人も低い水準であった。

 今にして思(si)えば、出(chu)(chu)(chu)生(sheng)率(lv)が回復(fu)する理由も全くの間違いだった。第2次ベビーブーム世代(dai)が出(chu)(chu)(chu)産(chan)適齢(ling)期(qi)になるという指摘はもちろん正しかったのだから、出(chu)(chu)(chu)生(sheng)率(lv)が低くなりさえしなければ出(chu)(chu)(chu)産(chan)数はかなり回復(fu)するはずであった。しかし現(xian)実には、出(chu)(chu)(chu)生(sheng)率(lv)はさらに低下を続け、出(chu)(chu)(chu)産(chan)数もあまり増えなかった。この時(shi)期(qi)は、総(zong)人口を少しでも回復(fu)する上で、日本に残された最(zui)後のチャンスだったわけだが、残念ながらこのチャンスを生(sheng)かすことはできなかったわけだ。

 進学率の頭打ちで初(chu)(chu)婚年(nian)齢の遅れが止まるという見通(tong)しも外れた。女(nv)(nv)性の大学(短期(qi)大学も含(han)む)は1980年(nian)の33.3%から上(shang)(shang)昇し続(xu)け、2022年(nian)には53.4%となっている。女(nv)(nv)性の初(chu)(chu)婚年(nian)齢は、1980年(nian)の25.2歳から上(shang)(shang)昇を続(xu)けており、2021年(nian)には29.5歳となっている。初(chu)(chu)婚年(nian)齢の上(shang)(shang)昇は、晩(wan)産化の流れを生み、出(chu)生率を低下させてきた。

 日本の家族観はヨーロッパ諸(zhu)(zhu)国(guo)とは違うという見(jian)込みも見(jian)当違いだった。50歳(sui)時点(dian)での未婚率は、男(nan)性が1980年(nian)の2.6%から2020年(nian)には28.3%に、女性も4.5%から17.8%にまで上昇(sheng)している。現在では逆に、少(shao)子(zi)化に対応するためには、欧米諸(zhu)(zhu)国(guo)のように結婚にこだわらない多様な家族の形態を認めた方(fang)がいいのではないかという議(yi)論になっている。

 かつては私も含めて多くの人(ren)(ren)が「出生率の低下(xia)傾(qing)向は一時的なものだから、この点を心配する必要(yao)はない」、「日本の人(ren)(ren)口(kou)減少(shao)が長期(qi)的に続くはずがない」と考え、それにはそれなりの理由もあった。しかし、これらの希望的観測はことごとく裏切られ、日本は少(shao)子化、人(ren)(ren)口(kou)減少(shao)の道を急(ji)スピードで進(jin)んでいくことになる。